<チベット仏教文化の中国への浸透が、習近平の一党独裁体制を脅かす>

 モンゴル駐インド大使が最近、インド外務省に書簡を送ったという。中国の習近平(シー・チンピン)政権によるモンゴルへの制裁を解除するよう、モディ首相から働き掛けてほしいとの内容らしい。

 事の発端は16年11月末に実現したチベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ14世(81)のモンゴル訪問。5年ぶり、9度目の訪問だった。中国外務省の報道官は「ダライ・ラマは法衣をまとったオオカミで分離独立分子」と口汚く批判。さらにモンゴルから輸入する鉱物に高関税を課し、決まっていた元借款を凍結するなど厳しい制裁を発動した。

 困ったモンゴルがインドに助けを求めたのには訳がある。仏教に代表されるチベット文明はインドにルーツがあり、モンゴルはチベット仏教の強い影響下にある。モンゴル、チベット、インドを結ぶ絆はダライ・ラマ亡命で強まっている。今回、中国から圧力を受けたモンゴルが中国と地政学的に対峙するインドに頼るのは自然だ。

「世界の屋根」チベットを自国の「古くからの領土にして核心的利益」と位置付ける中国は1950年に人民解放軍をチベットの首都ラサに進駐させた。54年、19歳の少年が北京に到着して、61歳の毛沢東とチベットの政治的地位を協議。百戦錬磨の毛に呼ばれた青年ダライ・ラマは「宗教は麻薬だ」と脅され、宗教改革を強制された。その後、中国はチベットの仏教寺院を破壊し、僧侶を還俗させる過激な政策を実施。ラサに軍事的な圧力をかけると、ダライ・ラマは59年に亡命した。

 以来、中国は「ヨーロッパの中世よりも暗黒な、政教一致の封建制から解放したチベットを、一気に共産主義に迎え入れた」と宣言。過酷な統治を続けてきた。当初は独立を唱えたダライ・ラマも近年では自らの存命中にチベット問題を解決しようと、中国への要求を「高度の自治の実施」に引き下げた。しかし、北京は対話のドアを閉ざしたままだ。高齢のダライ・ラマの「成仏」を待っているからだ。

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漢民族にまで高い人気

 ダライ・ラマは習国家主席の父、習仲勲(シー・チョンシュン)と交流があり、以前は現体制に期待を寄せていた。しかし、毛沢東時代に復古しつつあると判断してからは、両者の対話も途絶えてしまった。

 中国が恐れているのは、ダライ・ラマが「チベット仏教文化圏」全体に持つ権威だ。チベット自治区そのものだけでなく、その東の四川省西部と青海省、それにモンゴリア(モンゴル国と中国内モンゴル自治区)と旧満州、シベリア南部の住民はほとんどがチベット仏教の信者だ。



 16年のモンゴル訪問中も、ロシア連邦のトゥワ、ブリャート各共和国から信者が現地に集結。ブリャートでは近年、ロシア正教から改宗するロシア人も出現。チベット仏教徒は数こそ3000万人前後だが地域的な広がりが大きく、民族問題が先鋭化している点も重なる。だから、北京は神経をとがらせているのだ。

 ノーベル平和賞を受賞したダライ・ラマは哲学思想をユーモラスに分かりやすく語るので、実は漢民族にも人気が高い。従来は在外の漢民族や香港、台湾にファンが多かったが、近年では中国国内でもその説教に耳を傾ける人たちが増えてきた。

 急速な経済成長で精神的な世界を失い、実質的に国家資本主義制度の搾取にあえいでいる漢民族の貧困層まで、チベット仏教に救済を求めている。こうした国内外のブームは共産党の一党独裁を根幹から揺るがしかねないため、中国はダライ・ラマの外国訪問を糾弾してきた。

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 ダライ・ラマがモンゴルを最初に訪問したのは79年。既に社会主義制度は疲弊していた。それでも90年の社会主義体制崩壊はダライ・ラマ訪問と無縁ではない、と中国は理解している。

 資源価格暴落による未曽有の経済的困窮に陥ったこの時期の中国の制裁は、モンゴルに衝撃を与えている。「竜」と相性が合わないまま、ついに「ゾウ」の出番を待つ時となったようだ。

 果たしてモディはどのように登場するのだろうか。

[2016.12.27号掲載]
楊海英(本誌コラムニスト)

ニューズウィーク日本版1月14日
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