チベットが仮に封建農奴制度から開放されたというが、共産党による独裁により、チベットはその独自の文化を失い、漢民族の支配により、ことごとくチベット人の自由は失われ、破壊されている。憲法と法律に定められた権利を持ち、その義務を履行しているというが、まったくそのようなことはない。炎に包まれる自らの命と引き換えに、よの抑圧された状況を世界に訴える人たちがあとを絶たない。しかし、中国はメディアを使い自身の正当性をオーム返しのように繰り返す。(T)
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チベットの主人公はチベット人民

 1959年3月、元全国人民代表大会常務委員会の副委員長、チベット自治区準備委員会の委員長であるテンジン・ギャツォダライ・ラマ14世は、「チベットで自治区を設立し、民族区域において自治制度を実行する」という約束を破棄し、中国国家指導者の責任を放棄して、アメリカ中央情報局のスパイに護送されてインドに行きました。

 ところが、チベットの発展はダライ・ラマが離れたことで歩みを止めることはありませんでした。その後、パンチェン・オートゥル10世がチベット自治区準備委員会の委員長代理となりました。1959年6月28日、パンチェン・オートゥルはチベット自治区準備委員会第2回全体会議を招集し、「チベット民主改革についての決議」を採択しました。これにより、1959年から1961年までの2年間、チベットにおいて歴史的な意義をもつ社会制度の根本的な変革が行われたのです。1959年以前、ダライ・ラマをはじめとする農奴主たちは、チベット総人口の5%を占めるのみでしたが、チベットのほとんどの耕地、牧場などの財産と、当時チベット総人口の95%を占めていた農奴や奴隷を所有していました。この変革によって、百万の農奴がダライ・ラマなどの農奴主の支配から逃れ、人身の自由と政治権利をもつ公民となり、その歴史上初めて自分の耕地と牧場を持つようになりました。そして、チベットの各レベルの地方政権が第1回選挙によって成立しました。また、この変革によって、チベットにおける政教合一の封建農奴制度は廃止され、社会・政治と宗教は徹底的に分離しました。

 1965年9月、チベット自治区が成立しました。

 チベットの変化は実は人の変化に表れています。面積120万平方キロメートルのチベット自治区で、民族構成がほとんど変わらず、チベット族の人口が総人口の90%以上を占める中、チベットの人口は当時の100万人から300万人に増えました。また、平均寿命は1951年の35.5歳から67歳に延びました。チベット自治区では、各民族はすべて平等で、人々は憲法と法律に定められた権利を持ち、その義務を履行しています。

サーチナ 2012-03-30
http://japanese.cri.cn/881/2012/03/30/201s189874.htm